たまに、家づくりをして体を壊したという話を聞くことがあります。自分の経験ではありませんが、それはやってみて、思っていた以上に大変なことが分かって来て、くたびれ果てて病気になるのだろうと思われます。大変なことは、予算が少ないとか、敷地が狭い、あるいは引っ越し作業等が大変というようなことより、多分、家づくりは複雑に絡み合ったいろんなことを、改めて決めて行く作業であることからくる、“決める”ということの心労ではないかと思われます。
一見、設計と関係ないことですが,今、北アフリカ、中東、東アジア、ブラジル、ウクライナ等、世界の至る所で内部紛争が生じているようです。世界中が予想以上に多様性に富むようになり、しかもその情報が瞬時に、誰にでも容易に手に入れられ、自分等と周辺の差異が目に見えます。如何していくべきかを決めようとすると、そこに相互の得失も想像でき、まして宗教や民族どうしの欲が絡み合っていれば、より複雑になり,合意に至ることがますます困難になって来ているからだと思います。今日、最も困難で、心血を注いで発達させなければならない技術は、ものの生産性を上げるような工業技術等より、多様な民族と価値観の中での合意形成の仕組みなり、ルールづくりの技術や学問ではないかという気にさせられます。
このように多様性に混乱させられる状況は、実は住宅の設計でも、設計者はもちろんのこと、依頼主にも、どのような住まいにするかを考える時、同じ様相を呈して迫ってきます。大まかな有り様から始まり、細部に至るまで何段階にも渡って、考えれば考える程、沢山の情報がいやでも入って来て,選択肢が多様に存在することが分かってきます。又その気になれば技術的には、殆どのことが可能であり,好き嫌いや自分の判断だけで決められそうでいながら、いろんな要素がからみ合い、決めたと思ってもすぐに考え直さないといけない要因がすぐ出てきて、決めきれないことも分かってきます。
情報が多く錯綜するなかで、決定を迫られながら進めて行くのが住宅の設計です。自分の価値基準がその都度問われ、考えても見なかった問題の表出の連続になります。その都度毎あまり考えず、決めてしまい、楽になりたくなります。むしろ情報を遮って、決定し易くしたくなります。だからなのか、メーカー等の規格型の住宅に走る人が多くなるのかもしれません。自分で誠実に決めようとすると、色んな場合の切実性や希望、あるいは価値観等で、自分の中の合意形成すら難しい時代になって来ています。
いつまでも決めきれない事項を抱えているのは、気持ち悪く、苦痛でもあります。だから病気にもなります。でも住宅の設計は、ある段階で、ある事項の決定に、未だ分かってない要素の影響が後々に作用することがあり、決め切れないまま多くのことを留保しながら、物事を暫定的に次々判断して行く作業でもあります。
フランスの現代思想を専門とする内田樹氏が、知性とは留保し続けられる能力である、と言っています。自分はちっとも知性的ではないのですが、極めて優柔不断な人間で、これが最適か、といつも迷い、手探りばかりしています。でもそんな優柔不断な自分の欠点が、知性,と捉えることができるとなると、どっか慰めになります。決めきれない建て主さんにもお勧めです。
通常、経験が多くなってくると、確かに迷わなく決められるところも増えてきます。しかし,今度は経験の量と共に、見えてくる可能性が、新たな材料機器や手法と共に増えて、選択肢も増々多くなります。そうすると、より最適な回答が他にありそうに思え、欲が出て,また決めきれなくなってきます。いつまでたっても優柔不断は変わりません。
結局住宅設計で決まるのは、全ての事項を暫定的に決めた図面が、とりあえず整い、工事者の見積もりも出て,できそうなことと可能な予算の配分が明らかになったとき、全てのジグソーパズルの最後のピースが嵌って全てがいっぺんに決まる、と言えそうです。
せっかくの家づくりですから、病気等にならず、楽しく進めていただきたいと思います。誠実で優秀な建て主さん程、自分で決められるはずだという自信もあり、見える量も多いため、決めなければと思い、細部に渡って過剰なまでに悩まれることも多くなるようです。このように30年の経験を積んで来ても容易に決められないのが住宅設計です。少なくても建て主さんの特殊事情でない限り、通常悩まれることは,経験者にはもう回答が出ているものが殆どです。特殊事情や趣向以外までも全て自分で納得できるまでコントロールしようとして苦労するより、大まかなところや程度加減は、設計者の考え方に共感できるようでしたら、その経験や判断基準に委ね,気になったところのみを一緒に吟味された方が、体を壊すようなことにならず、楽に進められるのではないかと思われます。