タイトルも内容も潤いがないだけに、せめて伊豆の庭便りの写真を息継ぎに使わせて頂きます。
地球上で恐竜やマンモス等のようのように、頂点に立った動物はいずれも滅亡してきた歴史があります。肉体的にも脳の大きさでもホモ・サピエンスより優れていたネアンデルタール人は、直に会ってコミニュケーションをとれる最大員数の150人以上の集団を統治する術を持てず滅亡したとのことです。ホモ・サピエンスは直に会わない者どうしでも、国家や貨幣等を共有幻想または象徴とすることで、数万人以上の集団統治が可能になり、生き残って、今や頂点に立っています。確かにホモ・サピエンスはコミュニケーションのためのツールとして、狼煙に始まって、文字や書物、電報電話、新聞・ラジオ・テレビ、宅配便、等々を生み出して数万、数百万という多くの人々とのコミュニケーションが可能になりました。人間社会が、さらにインターネットやSNS等で直に会わなくても交流の度合いが深く、多くなった今日、自ずと進むべき方向に導かれているのでしょうか。コロナ禍も英国型やインド型変異へと感染力や重症化の脅威が増し、経済活動もどんどんリモート化、オンライン化が進み、直に会う度合いが減少していく傾向にあります。
米国人の4人に1人は陰謀論を信じているとのことです。日本にも陰謀論者が拡大してるかは判然としませんが、自分は普通だと思っている人ほど陰謀論に陥りやすいことを、毎日新聞で大治朋子氏がコラムに書いてました。一部転載します。
“米国の認知心理学者のジョンクック氏らによると、人間の脳はあいまいさを嫌う。特にコロナ禍のような未解明な脅威がもたらす「不透明感」が苦手だ。だからすべては特定の集団が悪意を持って仕掛けた計画だ、などと単純明快に説明されると「心地よさ」を感じてしまいがちだという。陰謀論はそれを信じる人に優越感も与える。疫病が自然発生しても、自分にはその背後に潜む謀略を見抜く力があるとと感じさせる。危機がもたらす不透明さや不安、無力感。陰謀論がそこにつけこむのだとすれば誰も魅せられてしまう危険性がある。「自分=普通」という思い込みの強さも、陰謀論のような極端な思考につながりやすいのかもしれない。”
これを読んで妙に納得できました。普通という概念は、価値観や家族など様々な制度が地域社会で成立していた時代から、それらが社会のグローバル化と新自由主義的考え方の蔓延でそぐわなくなり、生きていく価値や意味が見出しにくくなってきました。しかも時代と共に考えるべき変数(問題)が増大しており、自分で将来を見通す法則を構築することは困難になり、一方的でもいいから分かり易い考え方の提示に惹かれるようになったということだと思います。個人的生活でも、これまで自分以外の人や世界との繋がりや情報取得がインターネットやSNSになって、直接的に触れ合う世界が狭くなってきました。かなり客観化して考えようと努めないと、独りよがり又は偏った思考になってもおかしくありません。そこに今、世界中の人がコロナ禍で、さらにオンラインでしか繋がれない世界となり、対面で得ていた直観的確信が持てず、熟年層には何処か心もとない感じや不透明感が増幅しています。何か手ごたえや確信持てるものが欲しいという思いが強くなって、陰謀論が蔓延る下地が益々整ってきていると言えます。賢明と思われているドイツでもネオナチやワイマール憲法の陰謀論が後を絶たないようです。ということは専制国家のように意図を持った者が、単純明快な説明で共通の敵や分断を作り出し、サイバー攻撃や力づくで情報や多くの人をコントロールすることも容易になったとも言えます。そのせいか専制主義国家が国民コントロールをし易くなり、決定の手続きがが複雑な民主主義国家より、増えていく世界の傾向が理解できます。コロナが陰謀論を蔓延らせる度合いと専制主義国家を増している、ということでしょうか。
一方で、最近、適職判定や結婚相手を探すのにAIに相談したいと考える人が多くなってきているとのことです。確かに自分の少ない経験や狭い世界で探すより数百や数千倍の母集団の様々な情報と条件の中から、自分に合う適職や相手を探す方が適切な結果を生むだろうと思われます。また今の教育は児童や生徒に挫折をさせることを良しとせず、また成功させるより失敗させないようにすることが肝要と考えられているようです。失敗しないためには、教員などよりAIに聞いた方がいいと考える若者が増えるのは無理ないことかもしれません。これは大事なことも、自分で考えて決めようとするのではなく、分かりやすい意見や、飛びつきやすい判断を参考にしようとする行為で、自分では考えないように人類がなってきているということでしょうか。
さらにこれまではAIが単純な仕事をして、誰もが創造的な仕事をするようになるとも言われていました。ところがそれはエリート達の誤解で、創造的仕事はリスクを伴う意思決定が必要でそれは困難で責任も伴い疲れる作業で、誰もが従事したい仕事ではなくなってきたと言われているようです。高度な意思決定は確率的に確かなAIが行い、人間は比較的単純でコミュニケ―ションの伴う介護等の仕事を担うことになるのではとも言われています。つまり逆になっていくようです。
また人間の歴史は面倒なことを「外部化」してきた歴史でもあります。百姓という百の性(作業)を持つ農業をしていれば自給自足できた時代から、生産行為の専門分化と共に、様々な作業が外部化してきました。遠くに伝えることはかつては飛脚に、今は電話や郵便そしてメール、もめごとは弁護士、体調の具合の判断を医者に、家を設計したり建てたりするのは建築屋に、衣類や食料もリテイリング、食事もケイタリングと、どんどん外部化してきました。仕事などでもコロナの前から、直に会うのでなく、メールで済ませようとする傾向が多くなっていました。望むと望まざるとに関わらず、面倒なことの外部化は加速し、人類の統治も怪しいく間違いを犯す人間ではなく、間違いの少ないAIに任せることになっても不思議ではありません。
そうなってくると、なまじ自分で考えようとする者より、統治者に委ねてそれに従う者の多い方が争いがなく平和なことなのかも知れません。そのためか、個々の人間は直に会わなくてもコミュニケーションがとれ、陰謀論者が増大するような狭い世界の中に置かれ、様々なゲームやSNSあるいはエンターテイメントなどで不満を意識しないよう飼い馴らされていくのでしょうか。自分で考え判断しているつもりにさせつつ、実際は統治者の統御しやすい、AIという統治用具を使い、ある目的のもとに統一して制御する者(管理機構)に導かれているのでしょうか。これは人類が動物の頂点に立ち続けるための統治の究極の姿で、最初からホモ・サピエンスにプログラミングされていたことなのでしょうか。これが人類の進化の方向なのでしょうか、それとも滅亡していく前触れなのでしょうか。コロナ禍のステイホームで夢想してしまいました。