千葉市美術館で18日までやっている、浦上玉堂・春琴・秋琴父子の芸術展を見てきました。
上の写真は、浦上玉堂父子の芸術展を見に行った際、玉堂が演奏していたと言う七絃琴(胡琴)の実演奏後の写真です。残念ながら演奏があると言うことが分かったのは、帰る時で、急いで聴きに行ったのですが、終わっていて、七絃琴の説明をしていた時撮影させてもらったものです。現在 日本で弾ける人は百数十人ほどしかいないそうです。七絃琴はなかなか興味深そうな楽器でしたが、長くなりそうなので、ウイキペディアででも調べていただくこととして、今日は玉堂について。
玉堂は岡山県の鴨方藩のエリート武士として勤めた後、50歳で脱藩して、七絃琴と画筆を携えて17歳と10歳の息子達を連れて自由を求めて文人として全国を遍歴して歩いたとのことです。その息子春琴と秋琴の画も同時に展示してあり、当時の文人として生きるということがどういう事であったかが分かる展覧会でした。この時代の文人というのは昔の中国の白居易など、琴棋書画に代表されるような芸能を遊戯として嗜んだ、多芸に秀でた芸術家たちで、このほかにも、詩や篆刻などが文人の芸としてあげられるようです。今で言うシンガーソングライターのようなものかも知れません。文人たちは各地の豊かな商人や支配階級の集まりに呼ばれて芸を披露したりしていたようです。今でいう文壇など優秀な芸術家たちが集まって談論風発して楽しんだ仲間づきあいも盛んだったのだろうと思われます。玉堂自身は画より40歳から始めた琴(筝)を演奏する事に強く惹かれていたものと思われます。それでなければ自分や息子の号に琴という字を使わないのではと思われます。
学生の頃この玉堂も何も知らない時、彼の奔放な画に魅せられ墨絵を少しだけ描いたことがあって、チャンスがあれば見たいと思っていた画家(文人)でした。それが今回の展覧会で父子共々の画と生き方を展示してあり、三人を同時展示することで、一応意匠設計者という表現者の端くれとして、教えられるものが色々ありました。
玉堂の自由奔放な絵に、息子春琴は何とか父のような画家のなろうとして励んだものと思われ、実に美しく緻密な画を描いていました。技量は玉堂を凌いでいるように、私には思われました。春琴より7歳下の秋琴は、早くにその画才を発揮したようですが、絵の道には進まず、堅実に藩の行政の実務家として過ごし60過ぎてから再び画を気まぐれに描いたようです。私の想像ですが、春琴は玉堂を追い越そうとして努力を重ねて、職業画家としても当時は春琴の方がもてはやされていたかのようです。確かに技量は上回ったかもしれませんが、うまくなればなるほど玉堂の画ほどには惹かれるところまではいきませんでした。芸術というのはうまいから惹かれるというものではないという典型のように思われました。玉堂の画はある意味いい加減というか、天才的で自由闊達というか、絵に囚われてないかのような画なのに魅力的でした。たぶん七絃琴の方に重きを置いていたのではないかと推察しました。だから奔放な画を描けたのではないかと思われます。しかし春琴の父の演奏姿を描いた画は、自由さと穏やかな温かみがあり、最も好ましい気がしましました。秋琴は父と兄をみて、どっちにも行けない、別の道を選んだ方が賢明と判断したものと思われます。兄も父も意識しなくなって再び気ままに画を描く気になったのはよくわかる気がしました。
この千葉市美術館は下の写真のように古い旧川崎銀行千葉支店の建物を保存・修復し、さらに現代の文化活動に対応できるスペースとして、改修され、それを部分的に残し、現代的建築で鞘堂として包み込んだ建物です。設計者は京都の国際会議場のコンペ当選者の大谷幸夫・沖種郎の二人のうち大谷(幸夫)研究室の方です。平成6年に竣工、建設省設立50周年記念事業「公共建築百選」にも選ばれているそうです。