日本人は海外の思想や発明技術を取り入れ自分流に修正するのがうまいといわれます。仏教、文字(漢字)、西洋文明や科学技術の数々、外来語等、廻りに満ち溢れています。私たちは他所のいいものを取り入れる能力、というより取り入れようとする力が働くようです。少なくとも自分たちのものが正しくていい、という主張しようとする意識はなく、どうも正しいもの、いいものは他所にあり、それを学び取り入れるのが良いと思うようです。そのため学会でも海外の研究論文の翻訳や紹介で学者として著名になる人は少なくなく、建築でも数十年前までは海外のコピーは珍しくなく、それで名を馳せた人も数多くいます。
しかし日本で考えられた独創的なものがないかというとそうでもなく、日本では評価されず、海外で評判になり、逆輸入されるケースが多いようです。桂離宮もタウトに評価をされて日本人もあらためて高く評価をするようになりました。極めつけはISO14001(環境システムマネジメント国際規格)です。本来日本のJISやJAS規格に環境の項目を課していたら、日本の方がよりいいものができていたのではともいわれています。欧州で規格が制定されたので、海外進出に関連する日本の企業は3年毎に多額の審査料を支払って認証登録しなければならなくなっています。
どうして日本人は、身近にすばらしいものが生じても、海外で評価されたもののように評価できないのだろうと不思議に思っていました。読んだ方も多いと思いますがその答えが『日本辺境論』内田樹著(新潮新書)にありました。
勝手な解釈ですが、自分たちが世界の中心という中華思想に対して、日本人には自分たちは辺境の地にあり、少なくとも自分が中心ではなく、あくまで中央から来るものが正しくいいものなのだ、という考え方染み付いてしまったというのです。他人を説得するとか、評価をしてもらうためには虎の衣を借りる必要があったというのです。
謙虚といえば謙虚ですし、学ぼうとする向上心は誇っていい気質と思います。確かに日本では自分のものが正しいとか、いいといい張るのは、傲慢だとか、はしたないと思われる傾向があります。しかし、私が気になるのは身近のすばらしいものを評価できず、他所で評価されてはじめて評価しようとする環境です。さびしいものがあります。独創的なものを育て、自分たちが生み出すことが難しい社会のような気がします。
辺境の地にあったために、海外からのものを評価する癖がつたということはわかったのですが、だからといってかたくなに身近なものを評価しない傾向は、今ひとつ不思議でした。そしたらもうひとつ別な考え方もあるということを発見しました。それは『日本の難点』宮台真司著(幻冬舎新書)にありました。
これも自分勝手な解釈ですが、そこには、根本的に、人は人間が創った〈世界〉や仲間が創った〈社会〉を受け入れられないからだとあります。それは内側にいる存在が創った〈世界〉の場合、誰かに都合よく創られた可能性を排除できないからです。また自分と同じような数多くいる(共同体の)成員が作ったとしたらその者の恣意性は排除できずそれに耐えられないからというのです。万人を納得させるような者が創った〈世界〉でなければ耐えられないというのです。天皇制もそのために存続し続けて来たのかも知れません。多数決や民主主義もそれが正しいからというより、納得させるための手続きとしてまだましだから採用されているというのです。
つまり身近の者を評価するということは、自分とは別の者(決定者や権威者)にすることを許容することになり、容易にはできない、あるいはしたくないからと解釈しました。それが自分のあずかり知らぬところから来たものの評価なら、是非は別にして、ご託宣のように受け入れられるということなのでしょう。それで海外で評価されて、はじめて日本での評価が一般的になるということなのでしょう。
だから、皆さん仲間や同僚、とくに奥さん(ご主人)からなかなか評価してもらえなかったのだと理解できました?