設計は武術?武術的設計論その1?

今回は設計における術について考えてみます。最近面白い対談集を読みました。
 ―「武術とは矛盾を矛盾のまま、矛盾なく取り扱うもの」というのが私の定義ですが、これは禅の影響でしょうね。普通は「こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらが立たず」なものですが、限定条件付きながら、あっちもこっちも同時に立つのが技の妙、術だろうと思っています。そういう世界を先に体験してしまえば、さまざまな矛盾をストレスと感じるより、自分の解くべきパズルとかんがえるでしょう。同じことでも立ち位置が違えば、全然違って感じられるしょう。―(甲野善紀、内田樹、『身体を通して時代を読む』文春文庫。)

 この文章を読んで、まさに設計そのものだと叫んでしまいました。「武術とは矛盾を矛盾のまま、矛盾なく取り扱うもの」を私なりに解釈すると、例えば相撲では、対戦する関取の双方とも相手を何らかの技を用いて土俵の外に押し出すか、相手の足以外の体に土をつけさせようとし、その目的はお互い矛盾しています。その矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱って相手を押し出すか、土を付けさせます。結果として自分の技がかかりやすい状況に持ち込みえた方の技がかかり、片方にとっては矛盾なく取り扱って目的を達成し、もう一方にとっては矛盾のまま取り扱い目的を達成しえなかったことになります。

建築においてこれまで技術という言葉は、施工ならいかにも技術だと理解されやすいのですが、設計では技術というのにはどっか引っかかるものを感じていました。各部の適量を計算等で導き出す構造設計や設備設計では確かに技術といえる要素が大きくなります。しかし意匠計画という全体設計は、保存計画ならいざ知らず、再現行為ではない限り技術とはいえないのではないかと思っていました。

図面を手で描いていた時代なら描くという技術はありえるのかも知れませんが、キャドで描く今日ではなおさら図面の再現という意味では技術的ですが、それは設計というより、操作技術という方が正しくなってしまいます。でもそのせいか設計を単なる知識やノウハウ集の適用操作であるかのように考える傾向が強くなってきていて、それは設計ではないのではと疑問を感じていました。しかし実際に、建築の教育に関係するところでは、そのノウハウを知識として与えれば、それを適用操作するだけでいい設計者になれるかのように教えています。建築や住宅の雑誌も、そのように捉えてなのか、ノウハウ集が花盛りです。しかしある時期から、それはどうも違うのではないかと思い、それを人に説明できないまま、これまできました。
 
建築の全体を考える(意匠)設計こそまさに、あちらを立てればこちらが立たずで、矛盾する要求や条件を矛盾なく取り扱い実現させていく行為です。設計者の意識に、依頼者の状況に応じた最善(理想)を求める度合いが強ければ強いほど、その矛盾は大きく立ちはだかります。その矛盾する条件を的確な限定条件を設けたり、そこでの状況の特殊性の活用を考えてみたり、タイミングに気を使うなどして、そこでしかありえない形で様々な矛盾を矛盾なくどちらも成り立たせようとします。まさに武術です。特に住宅の設計はノウハウや情報をいかに集めても、むしろその情報が多ければ多いほどよけい選択や組み合わせが難しくなります。また様々な要因が多く、単純に運用しただけではどっかに成り立たないことや綻び、あるいは問題となる部分が多く潜んでくるものです。個々のノウハウの一つ一つはある仮定条件下では優れていても、それと全く同じ条件下で運用されることはありえなく、むしろノウハウが優れていればいるほど、ちょっと異なる条件下での運用は副作用が大きくなります。

 相撲の技48手を全て知っていたからといって相撲で勝てるわけではありません。知識や情報はそれだけのものでしかなく、技がかかるときは技が優れているからかかるというより、相手と自分をその技がかかるような状況に、上手に持ち込めるかで決まります。むしろ強い力士は技の数は少なく、どんな場合も自分の得意技に持っていき、勝利を収めています。技がかかりやすい状況設定の技量こそが重要だということです。
設計も望ましい有り様の住宅を実現するためには、素晴らしいノウハウを数多く集めるより、矛盾の多い与条件下に過不足なく的確で効果的な手法を如何に選択し、どう優先順位をつけて組み合わせ、単純には適用できない状況下、適用できるように条件をうまく整え、従来の手法も新たな工夫をすることで、矛盾を矛盾なく取り扱い目的を実現します。

 それら諸条件は予算であったり、敷地条件の誰もが見逃してしまいがちな小さなレベル差や近隣の窓であったり、必要と思う設計者の直感的こだわりや優先順位であったり、試行錯誤の中での発想や粘り強さであったり、考え方の転換であったり、建て主の何気ない一言や工務店の監督の意見であったり、メーカーの在庫であったりします。もちろんそれらの条件が矛盾を大きくかつ多くしてしまう事もあります。最初は何がどう相互に影響しあってそれらの条件が整うのか分かりません。最初からは計算できない要素が多く含んでいます。でも終わってみればどうって事のないことで、何で最初からそうしなかったのかと思われる、案外簡単なことの組み合わせが多いことも事実です。

 この辺の技の運用の仕方は設計者によってもやり方が大きく異なり、同じ条件ということはありえないので、ある者のやり方は、別な者にもできるというものでもありません。それは設計者で大きな違いと差が出るもので、その設計者にしか出来ないやりようがあるということです。その辺は簡単に言葉で伝えられるものではなく、他の者が同じように真似ても、設定条件が少し違っただけで大火傷をしてしまいかねないものもあります。また同じ設計者でも、あるときにできた建築がいつでもできるというものでもありません。むしろ最良と思えた建築は、そのとき以外では状況が違ってしまい、二度と同じようにはできないことの方が多いものです。

 相撲でも今場所10勝した者が来場所も10勝できるとは限らず、その時の体力、稽古量、立会いのタイミング、相手等々、要素が少しでも変われば同じような結果は生み出せないということと同じです。それが技は知識ではない証です。
そういう意味で、これまでつくってきた住宅は、今、同じものをつくれと言われても、殆どの住宅は二度と同じ条件では作れない気がしています。その時でしか出来ない条件をいかに有効に活用したかで可能となった住宅ばかりです。まさに胸張って設計という武術で建てた住宅だったと言えるような気がします。